リバースエニアグラム

絵本『おおきな木』の書評、再び

絵本『おおきな木』の書評、再び

今回は以前紹介したシェル・シルヴァスタイン氏の絵本、
『おおきな木』について再考したいと思います。
 

タイプ2考察の一環としてご覧ください。
(・・・ってちょっと苦しいか)
 

祝新版!!

何故、再びこの絵本を採り上げることにしたのか?
それは、ようやくAmazonから絵本が届いたからです。
 

おおきな木』シェル・シルヴァスタイン著

実はこの絵本、前回のレビューでは
絶版扱いとなっていたのですが、
嬉しいことに別の出版社、あすなろ書房さんから
この度、新しく出版されることになったのです。
 

いやぁ~、念じれば通ずですね。
 

しかも翻訳が村上春樹氏。
 

といっても、実は私、
村上氏の著書を一冊も読んだことがありません。
 

ですからむしろ先入観なく、
この絵本をレビューできるというものです。
(開き直り)
 

それでは出版を勝手に祝して、以下再考。
 

気になった変更点

もともと簡単な英文らしいので、
翻訳の際にはあまり色をつけられないじゃないか?
と勝手に思ってたのですが、
ざっと読んだかぎりですが、大きく3つ変更点がありました。
 

以下、変更箇所とそれに対する感想を
お伝えします。
 

木の言葉使いが女性らしくなった

英語原文ではもともと木のことを「She」と表しているそうです。
 

実際に旧版と比べると
とても女性らしい言葉使いになっています。
 

たとえば、

「家を持っていないの」
「家をつくればいいわ」

などがそうです。
 

この点については、旧版の中性的な表現の方が
良かったのでは?と思いました。
 

それは「与えること」と母性を同一視したくないからです。
 

男性でも「与えること」はあるんですね。
 

エニアグラムを学んでいる方であれば
お分かりだと思うのですが、
「与えること」はタイプ2の本質的な傾向であり、
その点にあまり性別の差はないと思うからです。
 

なお、新版のあとがきをみると、
村上氏は原文を尊重したとありますね。
 

「happy」の訳が「うれしい」から「しあわせ」になった

「きは それで うれしかった」

から

「それで木はしあわせでした」

に変わりました。
 

せっかくなので言葉の意味を
コトバンク」で調べてみました。
 

幸せとは
1 運がよいこと。また、そのさま。幸福。幸運。
  「思わぬ―が舞い込む」「―な家庭」「末永くお―にお暮らしください」
2 めぐり合わせ。運命。「―が悪い」
3 運がよくなること。うまい具合にいくこと。
4 物事のやり方。また、事の次第。

 

嬉しいとは
1 物事が自分の望みどおりになって満足であり、喜ばしい。
 自分にとってよいことが起き、愉快で、楽しい。
 「努力が報われてとても―・い」「―・いことに明日は晴れるらしい」⇔悲しい。
2 相手から受けた行為に感謝しているさま。ありがたい。かたじけない。  「あなたの心遣いが―・い」
3 (俗な言い方で)かわいい。にくめない。
 「何と―・い男じゃないか」

 

両者の違いを乱暴に言えば、
個人の意思の度合いですね。
 

嬉しいの方は個人の強い意思、
そして感謝の気持ち
があるんですね。
 

そして幸せの方は個人の強い意思というよりは
第3者の視点から見た「状態」を表す言葉ですね。
 

じゃあ、happyの意味はなんでしょうか?

happyとは
1 (…して[するのが])うれしい, 喜んで(…)する((to do));
 (…に)満足な((in, at …));(…ということが)うれしい((that節));
 (…が)うれしい((about, with …))
2 〈人・気持ちなどが〉幸福(そう)な, 幸せ(そう)な, うれしそうな
3 〈出来事などが〉巡り合わせのよい, 幸運な, 都合のよい

 

このようにhappyの訳は
うれしい、しあわせの双方を含みます。
 

でも、うれしいの方が最初にきていますね。
 

村上春樹氏ともあろう御仁が、
意味も無く旧訳の「うれしい」から「しあわせ」に
変更するとは思えません。
 

しかも、この言葉「happy」は
この絵本の一番大事な言葉といっても
過言ではないのです。
 

なのでこの変更点のねらいは
第3者の視点で木を評価、解釈してもらおうと
することにあるかもしれませんね。
 

「And tree was happy…. but not really.」が読者への問いかけから否定になった

少年が旅に出たいから船が欲しいと言って、
木を切り倒し、幹を持ち去ったあとの場面
です。
 

切り株だけになった木に対して
絵本を通して最初で最後、
作者の気持ちが伝えられます。
 

この場面がこの絵本のキモであり、
今回の翻訳で私が一番知りたかった部分
でした。
 

届いてすぐさまAmazonの箱から絵本を取り出し、
最初に開いたのもこのページです。(笑)
 

旧版の本田錦一郎氏訳では

「きは それで うれしかった・・・だけど それは ほんとかな?」

と読者に解釈をゆだねています。
 

旧版は手元になく、図書館で読んだだけですが、
確か、あとがきにも、木は無償の愛の象徴みたいなことが書いてあり、
ネット検索したら、あとがきPDFを見つけたので引用します。
 

「りんごの木が、ただひたすら喜びだけを
 見出していた
ことに読者は注目すべきである。
 すなわち、エーリッヒ・フロム同様、
 シルヴァスタインにとっても、「与える」ことは、
 あふれるような生命の充実を意味しているのであって、
 犠牲的喪失を意味しなかった」

・・・ふぅ。

この文章を見る限り、旧訳者の本田氏は
「木はうれしかったのだ」と解釈
しています。
 

だから本田氏は何故シルヴァスタイン氏が
「but not really.」と繋げたのかが
理解できなかったのではないでしょうか。
 

「And tree was happy…. but not really.」を直訳すれば

「それで木はうれしかった・・・だけど本当はちがった」

ですよね。
 

おそらく中学1、2年生レベルの英文。
 

否定文であって、疑問文ではないのです。
 

「だけど それは ほんとかな?」と
読者にその解釈を投げかける手法は、
木が幸せでなかったことが
理解ができない本田氏にとって、
葛藤というか苦肉の策だったようにも思えるのです。
 

私が最初に本田氏訳でこの部分を読んだときの
違和感はとても大きいものでした。
 

なので今回の再販で訳者が代わると聞いて、
この部分をとても楽しみにしていたのです。
 

それでは村上春樹氏訳ではどうでしょうか?

「それで木はしあわせに・・・なんてなれませんよね」

否定しています。
 

おぉ~。否定ですよ!否定!
 

村上氏は「木は幸せでない」と解釈したんですね。
 

すばらしい!!
 

私は、シルヴァスタイン氏が
「この木は幸せではない」
と考えていたと思っていますし、
私自身も、そう思っています。
 

以前の記事でも書きましたが、
この木はエニアグラムの性格タイプでいえば
タイプ2であり、私もタイプ2です。
 

なので性格タイプのフィルタを通せば
この木の「与える」とは
本当の意味で「無償の愛ではない」と
私は感じるのです。
 

それは少年の愛を見返りとして求めているから。
 

そうでなければ少年からの拒絶を恐れるあまり、
迎合しているかのどちらかです。
 

その見返りを求めるあまり、自分を大事にせず、
自らを犠牲にして与え続ける、与えすぎる行為は
木だけでなく、少年にとっても幸せでなかったと
私は思います。
 

もちろん幸せの定義は人それぞれあるのでしょう。
 
でも「成長」を幸せの目標とするなら、
木と少年は両者とも成長できなかったのだから、
幸せではなかったと私は考えます。
 

そしてもう一点、
村上氏のこの訳文に対して引っかかった部分があります。  

それは文末に「よね」がついていることです。
 

なので単純な否定文になっていない気がするのです。
 

もし「よね」に「?(はてなマーク)」を付けたら
どうなるでしょうか?

「それで木はしあわせに・・・なんてなれませんよね?」

「木は幸せではない」という解釈を読者にも強制し、
別の解釈を禁じるニュアンスになります。
 

次に「よね」を省いてみます。

「それで木はしあわせに・・・なんてなれません」

なんか変ですが、これだと「木は幸せではない」ことを
断定する感じ。むしろ怒っている感じがしますね。
 

つまり、村上氏は
「木は幸せではない」と思っているものの、
それを強く断定したり、読者に強引に押し付けるまでの
意思はない
のです。
 

じゃあどうしてわざわざ「よね」を繋げたのでしょうか?
試しに「・・・」をつけてみますね。
 

「それで木はしあわせに・・・なんてなれませんよね・・・」

こうすると
「木は幸せではない」ことを伝えつつ、
村上氏の木への同情心、無情感、
もっと言えば自身に言い聞かせるニュアンスすら
読み取れる
ようになります。
 

村上氏の解釈としては、私はこれだと思います。
 

ここまで書いたところで、
ふと気になって村上氏訳のあとがきを見てみました。
 

美しい感情があり、喜びがあり、
希望の発芽があるのと同時に、
救いの無い悲しみがあり、苦い毒があり、
静かなあきらめがあります。
 
それらはいわば、人間の心という
硬貨の裏表になったものなのです。」

 

つまり村上氏はこの絵本に
美しい、正の側面だけを見ているのではなく、
悲しみ、毒といった負の側面も
ちゃんと見ている
のです。
 

ですから「よね」を文末に繋げることで
木への同情心、無情感、
自身への言い聞かせをしているという
私の解釈はあながち間違ってはいないんですね。
 

「よね」という2文字があるおかげで、
読者の解釈の幅を増やし、情緒が増す。
 

村上春樹氏は恐るべき人ですね。
 

以上3点が翻訳の大きな変更点になります。
 

これらを除けば気になる変更箇所はありませんでした。
 

もし、ありましたら追記していきますね。
 

あらためて挿絵をじっくり見た感想

「この木は少年の愛という見返りが欲しくてたまらない」
と私が思うのには理由があって、
それは木の描き方にあります。
 

今回あらためて挿絵をじっくり見て、
その思いを益々強くしました。
 

旧版のAmazonレビューや前訳者本田氏のように、
もし、この木の意味するものが
無償の愛、聖なるもの、調和といったものなら、
もっと、こう、どっしりした木になると思うんですよね。
 

例えば、縄文杉やトトロが住んでるクスノキとか、
日立の木みたいな奴。
 

でも絵本を見てもらうとわかるのですが、
この木は少年とのやり取りで、
それはもう幹がグイグイしなり、
木の枝は、まるで人間の腕や手のように
自由自在に動くのです。
 

さすがに地面から抜け出して
動きまわることはありませんが、
それでもこの木は植物として描かれておらず、
動物、それも人間として描かれているとしか
思えません。
 

木に顔はありませんが、
少年への愛を、
少年に会いたくて会いたくてたまらない寂しさを、
待ち侘びたあとに少年がやってきたその嬉しさを
体全体を使って、ちゃんと表現している
のです。
 

私にとって木は母ではなく、
まるで恋に目覚めた、うら若き乙女に見えるのです。
 

先にお伝えした
訳文の変更箇所の説明では、
木は女性ではなく中性的な方がいいと述べました。
 

でも私も本当のところは
木は女性の方がいいと思ってます。
 

原文もSheですし、
少年の愛という見返りを欲する、
その恋心を理解するには女性の方が都合がいい
からです。
 

じゃあ何故わざわざ、
木は女性じゃないほうがいいと思うのか?
それは絵本の構成上、木を女性にしてしまうと
木は母性の象徴になってしまう
からです。
 

それでは、何故木は母性を持たないほうがいいのか?
それは先に述べたように
「母性だけが与える」としたくないのもありますが、
なによりも、母性に対しては否定的な意見を
言えなくなってしまうから嫌
なんですね。
 

神聖とまではいいませんが、
母性は一般的には不可侵と捉えられていると
思うのです。
 

だからこの木が母性の象徴であるならば、
「幸せでなかった」とか
「成長することができなかった」という
自由な解釈ができなくなってしまう
のです。
 

前訳者の本田氏は、まさにこの罠に
ハマってしまった気がするのです。
 

そしてもう一つ、疑問に思うのは、
子供に言われるがままに、
自身を傷つけてまで与え続けることは
果たして母性なのか?
ということですね。
 

それこそ賛否意見が分かれるところですが、
私にはそれが母性だとは思えないのです。
 

2010.9.15追記
ふと思い出したのですが、この絵本の対になる作品で、
オスカーワイルド作「しあわせな王子」があります。
 
黄金の像である王子が、街の困っている人に対して、
自分の体についている、宝石や金箔を与える物語です。
 
王子は自分で動けないので、宝石や金箔を与えるのは
実際には友達のツバメが担うことになります。
 
このツバメ、最初は嫌々でしたが、王子の心にうたれ、
最後は自発的に王子に付き合って
冬の寒さで死んでしまいます。
 
こちらのほうが本当に困っている人に対しての
施しで、しかも見返りを求めないぶん、
素直に感動できる話になっていると思うのですが・・・。

 

そして一番大事な場面。
 

少年に幹を切り倒され、木は切り株になる。
 

「And tree was happy…. but not really.」
 

精根尽き果て、クタッと斜めにつぶれたその姿は
少年が去っていったことと
すべてを失ったことの、
深い悲しみと後悔、静寂を感じさせます。

 

この切り株の絵を見て、
「木が、ただひたすら喜びだけを見出していた」
と思うのは無理がありませんか?
 

そしてよく見ると分かるのですが、
最後に少年が現れたとき、
クタッとつぶれていた切り株は、 けなげにも、ちゃんと背伸びしてるんですね。
 

まさしくこれがエニアグラムタイプ2のプライド。
 

最後まで与える立場に固執する。
 

私はこの絵本を読みすすめるうちに、
木と一体化してしまい、
罠にハマった自分自身の姿を見てしまう
のです。
 

だからこの場面で私の心は、こう叫ぶのです。
 

やめてくれ!!もう十分だ!!
 あんたにはもう差し出すものなんて
 何もないじゃないか!

全てこれは愛がなせる悲劇なのです。
 

この絵本を読み終わった後は、
タイプ2はここまでして愛が欲しいのかと
私は愕然としてしまうのです。
 

前回の感想では、
「胸糞悪い」というかなり嫌な表現をしました。
 

なんども書き直そうかなと思いましたが、
あの時は本当にそう思ったので
いまでも直してません。
 

罠に落ちてしまった、本当に醜い自分の姿を
見せ付けられて、思わず感じた気持ちなんですね。
 

そして、その罠は、いつも自分のそばに
大きな口を空けて待っていることを
実感するのです・・・。
 

まとめ

この絵本に出てくる木は
原題のとおり「与える木」なのですが、
愛を欲しがる木でもあります。

 

訳者の村上春樹氏があとがきでいうように、
与えることと欲しがることは
光と闇、表裏一体であることを
理解していただけると幸いです。
 

もちろん、
旧訳のほうがいいと思う方も多いと思いますが、
それはそれでOK。
 

新旧の訳者があとがきで述べるように、
いろんな解釈をすればよいと思います。
 

読むときの心の持ちようや価値観の違いが、
ダイレクトに投影される絵本なのだと思います。
 

今回はここまで。
 

ご意見、ご感想をお待ちしております。
 

それではまた。
 

追伸

この絵本売れてるのかなぁ~と思って
Amazonランキングで調べたところ、
書籍全般で9月集計分では42位になってて、
結構売れているみたいですね。
 

あと、旧版の裏表紙にあったシルヴァスタイン氏の
顔写真については無くなっており、
緑の無地のままです。
 

デザイン的にはこちらの方がいいと思いました。
 

書店で手に取り、いい絵本だなと思って、
値段を見ようとしたら怖いお顔のヒゲ親父
写ってたら普通ビックリしますよね(笑)。
 

少なくとも販売戦略的には無地の方がいいかと。
 

いくら普段書籍はAmazonでしか買わなくても、 さすがに絵本くらいは書店で吟味したいですからね。

2012.5.31追記

この絵本は読み返す度に、いろんなことを気付かせてくれます。
この絵本を最初に読んだり、レビューをしたときは
きっと自分の中にある「毒」の部分だけに
意識が向かってたんでしょうね。
エニアグラム書籍(会派?)には、
この「毒」の部分に意識を向けさせようとするものが多く、
それに引っ張られ過ぎていたというのも理由の一つです。
今となっては、「毒」があってこその光だと思うし、
この木が切り株になりながらも、
「それでも与えようとする姿」に光を見出すこともできます。
その性格タイプにとっては、なんの変哲もないその言動は、
他のタイプにとって、実は物凄くまぶしい光を放っている。
そして自身の光の部分を受け止めることができなくて
苦しむことも多いのだなと悟りました。
そして私はあえて光の部分にフォーカスをすべき存在だとも。
前訳者の「木が、ただひたすら喜びだけを見出していた」
というのは「毒」の部分をひたすら見たくないという気持ちの裏返しです。
それは以前の私と真逆の考えですが、
どちらもとても偏ったモノの見方でしかないことに変わりはないんですね。
サイト移転を機に、この二つのレビュー記事も消そうと思ったのですが、
私自身の心の移り変わりを残しておいたほうがいいかなと思って、
消しませんでした。
無茶苦茶恥ずかしいですが、
葛藤したり苦しんだり悩んだりするのも自分の一部ですから。
そこはちゃんと認めてあげるべきだなって思うんです。

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コメント&トラックバック

  • コメント ( 2 )
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  1. こんにちは!はじめまして。
    この絵本持っています!
    エニアグラムを勉強している姉が
    誕生日プレゼントとしてくれました。
    実は、、、私もタイプ2です(・・;)
    この絵本を読むとムズムズするけど
    どこか共感してしまう。少年ではなく木に!
    姉がプレゼントしてくれた理由が
    今分かりました。笑

    • コメント有難うございます。
      ものすごい誕生日プレゼントですね(汗)。
      木に共感できるからこそムズムズしたり、口惜しさを感じるのだと思います。
      なんだかんだ言って少年のように甘えてくる子って可愛いので、請われるままにあげたくなっちゃうんですよね、実生活でも(苦笑)。
      でも、どこかで線引きはしなくちゃいかんので、そのあたり悩んだり葛藤したりするワケです。
      線を引いたら引いたで、辛い思いをしますし。
      そんな自分に対して「まぁしょうがないよね。自分はそういうキャラだし」って感じの、いい意味でのあきらめとか、己の滑稽さを明るく笑えるようになればいいと思うんですよね。
      人の最終的な拠り所は自己肯定なので(笑)。
      ただ現実的にはそういう姿をちゃんと誰かが見ててくれるので、そこに意識を向けると吉ではないでしょうか。

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